huv a slight fever

年中夏

せめてあなたもしあわせを感じていてほしい

 いつからか、好きな役者・俳優に対して、舞台に立っている間、少しでもいいから楽しいと思っていてくれたらいいなあ、しあわせと思ってくれていたらいいなあと思うようになっていた。それは私が、舞台に立って演じたり時には歌ったり踊ったりしている彼ら彼女らを見ているときに幸せだと思うから、それと同時に彼ら彼女らも、楽しいとか幸せだとかそういうことを感じてくれていたら、Win-Winというか、すごく良いことのように思えたからだ。今もそう思っているところがある。
 考えれば罪滅ぼしのようなものだと思う。私は1観客としてお金を払って、演劇やミュージカルを見る。それはとても楽しくて、時には悲しくて、素晴らしい作品に出会えたとき、素晴らしい瞬間に立ち会えたとき、しあわせだなあと思う。それと同時に、時々虚しくなることがある。私は、彼らを消費している。それが彼らの仕事だからと言ってしまえばそれまでで、対価を払って楽しんでいるのだから当たり前だ、それでいいと言われたらそのとおりだけど、それだけではちょっと悲しいと思ってしまう。お金だけでないもの、例えばしあわせという感覚を、舞台に立つ側にも感じていてほしい、と思ってしまう。
 そもそも、舞台に立って楽しいとか、幸せとか感じるのはどういうときなのだろう。自分が思い描いたように動けたとき?自由に歌ったり踊ったりできたら、それはそれは楽しいだろうなあと想像したことはある。それとも、喝采を浴びるとき?きっとすばらしい達成感や満足感で満たされるに違いない。それとも、その両方?それか、またまったく別の理由か。私は、舞台に立ったことがないのでわからない。
 ポルーニンは、きっと前者よりのなにかというか、踊ることが本当に好きだった、踊ることの魅力にとりつかれていたのではないかと、一度やめようとしたところから離れられずに戻ってきたのを見て感じた。
 舞台に立つのはつらい、というようなことをポルーニンはバックステージで口にしていた。実際に、とてもしんどそうだった。体力、精神力、もっと別の何か?見えない圧力とか、自分の想像力とか、とにかくまあ、人の前に立つというのは、自分を消耗して、磨耗していくものなんじゃないかと想像でき?。何かを犠牲にして、もしくは全てを犠牲にして、舞台に立つことに捧げられる彼らの人生。だからこそ、その犠牲と引き換えの彼らにしか味わえない、彼らにしか手に入れることのできないなにかを手に入れて、少しでもそのつらさを埋める何かを得てほしい。
 ポルーニンにとっては、舞台に立つということよりも、踊ることにすべてを捧げているみたいだった。まるで呪いだと思った。しかもそれが、彼の生まれ(国の事情や、体操からバレエの道に進んだ過程など)からたどるように至った運命のように感じられたから、ひときわ、私の人生から離れた世界の物語のように思われて、想像しがたい。
 
 彼にとっての踊りにあたるものを、私は持っていない。 そしてこれからの人生でも、きっと手に入れられない、という気がしている。しかし、そういったものを持った人を見るためにお金を払うことはきっとやめられない。私は彼らだけが持つ、彼らにしか表現できない美しい何かを一目見たいという気持ちでチケットを買う。これからも。



(映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』 鑑賞後に書いた)